平安時代の女を夢に見た棋士の話


佐為と緒方


髪の長い、着物姿の女が泣いている。そんな夢を見た。

『もっと…たかった』

消え入りそうな声で俺に訴えた。
こんな弱々しい女は好みじゃないんだがな、と思いながらも俺は目の前の女をかき抱いた。
それで気付いたが、俺まで着物だった。どんな夢だこれは。
女の着物から甘い匂いがする。
香水ではなく…昔付き合ってた女の部屋で嗅いだ匂いに似ていた。

『もっと、どうしたいと言うんだ?』
『私は…』

女が俺の頬に指で触れた。華奢な手だが、人さし指の爪に見覚えがある。

『もっと碁を打ちたかった』


そこで目が覚めた。
変な夢だ。俺が碁を打つ女と付き合っているとは。
まあ、夢だからな。



今日は世間一般に休日だが、俺には棋院で仕事があった。
そこで行われる『子供囲碁大会』での審判員。
子供の相手はうるさくて嫌いだが仕事だから仕方ない。
案の定、騒ぎが起こる。観戦していた子供が、対局を邪魔したらしい。
俺は中断になってしまった盤上の棋譜を見た。

「この急所を即答した…だと?子供が?」

信じられなかった。
子供がこれをちょっと見て指摘したなどと。
後日、俺の師匠がその子供と相対したが、子供は数手でその場から逃げ出した。

何者なのだ、あの子は。
石を持つのも覚束ない初心者だった。
そんな頃に、俺はあの急所を即答できただろうか?



またあの女の夢を見た。女が着ている着物は振袖や留袖ではなく、雛人形みたいな大昔のやつで、何故か俺も大昔の着物姿だ。
女の目は盤上の石に注がれていた。

『ここで…見落としましたね』

俺はその女と碁を打っていたようだ。驚いたことに負けていた。
プロ九段の俺を負かすなんて、何て女だ…いや、だからこれは夢だ。
変な子供に会ったから、こんな夢を見てるんだ。

『初めてお前達兄妹に会った時
この盤に並べてあった石は黒が勝っていた…
黒石は兄ではなく、お前だったのだな』
『兄は宮中で、お健やかにお過ごしでしょうか』

それまで碁石以外は興味がないといった風情だった女が、ここにいない者を懐かしんで優しい顔になる。

『相変わらず俺の従兄…帝と囲碁三昧だ』
胸のうちに暗い感情が沸き上がる。
『お前はこうして俺の相手をしておればよい…碁も閨でも』

女の手を取って引き寄せると、着物の袖に触れた碁石が盤上からばらばらと落ちた。
女は抵抗らしい抵抗をしなかった。
だが袖を膝で押さえて女が起き上がれなくした俺のやりようはかなり乱暴だ。
嫉妬のせいか。
それは女の碁の才能に対してなのか、想いが兄に向けられている事に対してなのか…両方だろう。

『私は…ずっと碁を打っていたかった…』

女は下に散らばった碁石を見ていて、俺をついに見なかった。


何故こんな夢を見なければいけないのだ。
俺が女に碁で負けたなど。
そして権力にモノを言わせるように、無理矢理抱いたことも。

あまりに不愉快な内容に、俺は努めて夢を思い出さないようにした。
そして、あれはタダの変わった夢だ、とほとんど忘れてしまって思い起こす事もなくなった頃。


俺の師匠がプロ棋士を引退した。引退の理由は、健康上の問題や、弟子である俺に負けてタイトルをひとつ失ったことではなく、インターネット囲碁で強い相手に巡り会えたことが原因だと言う。

相手の正体は不明。
ネット碁ではsaiと名乗っていた。

そして俺は偶然に、saiと師匠を会わせた人物を知った。
あの子供だ。

その才能に嫉妬を覚えたのも束の間、俺は何故かその子供が気になり院生になる試験の世話を焼いたり、棋院で会えば世間話をしたりしていた。
初めて会ってから2年と少し経ち、そいつはプロ棋士になって俺の前に立っている。

「俺もsaiと打たせろ!」
気付いたらそう怒鳴っていた。


「オレで我慢してよ」

saiとの対局を「saiなんて知らない」と何度も断られた挙げ句に、何故か俺はこいつと打つことになった。
泊まり掛けで行われたイベント会場の旅館でのことだ。

そして負けた。

「簡単な死活を間違えたね、飲み過ぎだよ」

そいつは俺の失着を、酒に酔っていたせいだと言い放つ。
その通りかも知れなかったが…

『ここで見落としましたね』

白い指がその一点を差し示した。

「さい…?」

俺のつぶやきに、子供がびっくりした顔で俺を凝視した。




『兄の振りを、だと!?』
『どこから見ても兄の佐為でしょう?』

長い髪のままではあったが、兄の装束に身を包んだ女は、まさしく女の兄である佐為にしか見えなかった。

『兄を死に追いやったのが何であったのか…私は知りたい
死んだのは私だということにいたします』

女の決意は正気とは思えなかったが、それを止められそうにもなかった。
俺は佐為の後見でありながら、守れなかったのだから。
その時、足元で赤子がぐずった声を上げた。

『吾子ともこれで別れてしまうことになるでしょう』

吾子…女の産んだ赤子なのか。

『碁を教えてやりたかった』

女が赤子を見下ろしたのにつられて俺も赤子を見た。
まだ剃っていない生毛なので、髪色が薄い。
灯明に煌めいて金色に見えた。

『今生では縁の薄い親子でありましたけれど
許される時が来るのなら
この身が朽ち魂だけとなっていても
この子に寄り添ってやりたい』
ならば止めたらどうだ、と引き止めることはできなかった。
『碁は俺が仕込んでおいてやる…お前には不服かもしれないがな』
この期に及んでこんなことしか言えない。

『私には…あなたと打つのも楽しみでありましたよ』
初めて、女が俺に微笑むのを見た。
儚い笑みではあったが。

そして女は長い髪を、俺の小刀で切り落とさせた。


夢だ、これは。


気が付くと
子供は部屋からいなくなっており
石が片付けられた碁盤に月の灯りが降り注ぐだけだった。




(618として投稿したものを再録 一部改稿
投稿日:2006/01/13(金) 02:56:56)