<前編>
ボクは幼い頃からプロ棋士になることを目指していた。
碁以外に興味が持てないので、小学5年の夏休みの自由研究も、本因坊秀策という江戸時代の天才棋士のことを調べることにした。
そうしたら読んだ本に同じ時代の怪談話も載っていて、つい、全部読んでしまった。
怖かった。
もの凄く怖かった。
2学期が終わる頃にはなんとかその恐怖も普段は忘れる事ができたけど、秀策と聞くとその恐怖を思い出す。
幸い、囲碁そのものは世間ではあまり注目されていない遊技なので、普段、秀策の名を聞く事はない。
しかしプロ棋士を目指す者として「秀策が怖い」状況はかなり困った事だ。
どうすればこの恐怖を忘れる事ができるだろう。
あれこれ悩んで小学6年生になった時。
父が経営する碁会所で、ボクは進藤ヒカルという同い年の小学生と出会った。子供同士で打ちたがったのでボクと打った。
数手打つうちに、忘れかけていた恐怖がよみがえった。
進藤は秀策時代の古い定石を打つ。
ボクは大負けした。
ボクの秀策への恐怖心がその原因なのだろうか。
しかし、こんなことではプロ棋士になれない。
この恐怖は必ず克服されなければならない。
ボクは進藤を探し出し、再戦を挑んだ。
また負けた。
そして気付いた。
ボクが恐怖に怯んで力を出し切れなかったのではなく、進藤自身が強いのだ。
ならば、進藤に勝つ事ができたら、ボクはこの恐怖も克服できるのではないだろうか。
幼いボクはそう考えた。
3度の再戦が叶ったのは中学校の囲碁大会。
ボクは勝った。
しかし進藤は同じ人間とは思えないほど弱くなっていた。
ボクはそれに幻滅した。
ボクはこんな勝ち方をしても嬉しくない…怒りが込み上げてきた。
進藤にこだわるのは止めたボクは、棋士採用試験(プロ試験)に挑んだ。
秀策への恐怖心は既になくなっていた…。
プロ試験中、ネット囲碁でプロを思わせる強さの棋士がいることを知った。
名は「sai」。日本人ということしか判らない。
強いという噂に興味を持ったボクは「akira」という名でログインした。
すると僕に「sai」が対戦を申し込んできた。初めの数手は、進藤と二度目に打った時のものと同じ、秀策の古い定石…。
「sai」は何者なんだろう。
そんな疑問を抱きつつ「sai」に再戦を申し込み、対戦した。
本当に「sai」は強かった。負けたボクに沸き上がった思いは、恐怖ではなく、歓喜だった。
その日、父の碁会所の客に「ネットカフェに進藤がいた」と聞かされて思わず探しに向かってしまった。
ログインしたばかりのボクに対戦を申し込んできたことも、初戦の秀策の古い定石も、そしてこの強さも、全てこの疑問に行き当たるものだった。
進藤と「sai」は何か関係があるのではないだろうか?
進藤はネットカフェにいた。
しかし「違う」と否定した。
「ネット碁はしていない」と。
「オレの影なんか追ってると本当のオレに足をすくわれるぞ」とも。
ボクの過去への執着を進藤自身に嘲弄されたように思えて、怒りのあまり「今から打とうか?」と挑んでしまった。
その時の進藤の怯んだ様子に、こんなコトを言いたかったわけでも、そんな態度を見たかったわけでもない、と後悔した。
やはり関係があるんじゃないか、と後で冷静になって考えた。
小学6年生の進藤は確かに強かったのだ。「sai」と同じく。
もしかして進藤は、囲碁をしていて本因坊秀策を知ったのではなく、元々秀作に興味を持っていて、そこから囲碁を知ったのではないだろうか。
ボクのように宿題か何かで秀策の事を調べ、そこから囲碁に興味を持った。だから古い定石で打った。古い定石に戸惑ったボクは負ける。その後でコミ等の現在の囲碁ルールを知った進藤は、それに馴染めなくて棋力が弱くなったのでは、と。
気付いたら、僕は進藤の後を付けていた。
「おまえのせいだ」
そんな進藤の声が聞こえたのは、ある住宅地にある公園だった。
「お前が打ったから塔矢に勘違いされた」
進藤は誰かと激しく言い争いをしているようだ。誰と話しているんだろう…?
ボクの名前が出てきたこともあって、思わず聞き耳を立ててしまった。
そしてボクは見てしまった。
進藤の前には誰もいないのを……!
誰と、何と話しているのだろう、誰もいないのに…!?
そんなボクが思い出したのは、「牡丹灯籠」という怪談…小学生の時にボクを恐怖で包んだあの怪談だった。
恐怖がよみがえった。
進藤はナニカに取り付かれているのか!?
<後編>
緒方九段はボクの父の弟子で、門下生の中では芦原さんの次にボクの面倒をよく見てくれる。その緒方さんがある日曜日、ボクを棋院に誘った。『面白いモノを見せてやろう』などと言って。
「面白いモノって……」
そこは棋院の洗心の間。院生の研修日なので院生が対局中だったが、その中に進藤がいた。
「院生になったんですか!?進藤が!」
つまりプロ棋士を目指している。ボクは頬が弛むのを感じて、口元を引き締めた。横の緒方さんを見ると、意味ありげに笑っている……いつもこんな表情だ。ボクのことで何でも面白がる人だから。今日は、進藤を見るボクの反応を楽しむために、ここに連れてきたというわけだ。
緒方さんもまた、進藤を気にしている。
「あいつ、面白いな」
進藤の囲碁の実力の測り知れなさをこのように評していた。
「いつか打ってみたいと思わせるような……ま、アキラ君ほどの腕はまだないだろうがな」
緒方さんが真実を知ったらどう言うかな。進藤には質の悪い幽霊が憑り付いていると。
「ボクも……そう思います。でも」
進藤の棋力のあやふやさは幽霊のせいだ。そんなモノにはさっさと退場願って、ボクはきちんと進藤と打ちたいと思う。
「もう……近付けさせません」
ボクは決めた。
何としても進藤から幽霊を引き離す。
ボクはオーソドックスな除霊方法を採択した。他の人の目に触れさせてはいけない。平日は学校だし、休日は進藤に院生研修が、ボクには自宅で塔矢門下の碁の研究会がある……いや、その日がいいか。
「お母さん、こんどの碁の研究会の日のことなんですが」
登校前、母は台所で片づけものをしていた。
「なあに? 改まって。何か変更があるの?」
ボクの嘘は気付かれないだろうか。努めて平静を装う。
「帰宅が遅くなるかもしれないんです。以前から対局したいと思ってた人がいるんですが、その日しかできなくて。家に帰るのが遅くなりそうなんです」
「アキラさんが?」
母がにこやかに応えた。
「棋士の方なら、お父さんの研究会に来ていただけばいいのに」
「え……そうできればいいのですが……塔矢門下の研究会やうちの囲碁サロンには……ちょっと来辛いかもしれない……」
母はこれで誤解してくれた。
「ボクとしては先方には気兼ねなくボクと対局してほしいと思ってるんです」
塔矢門下をライバル視している棋士の誰かと碁を打つのだろうと、母は思ってくれたようだ。
「お父さんには言っておいてあげるわ。遅くなってもアキラさんのことだから、心配しなくても大丈夫ね」
ボクは嘘は言ってない。それでも良心がちょっとだけ痛んだ。
でも進藤と初めての時のような碁を打つためだから、後悔はしない。
除霊のためにいくつかの道具が必要だったが、それらは苦もなく揃えることができた。たいていの文房具店や書店で入手できるものだったから。
あとは院生研修に棋院に来ている進藤を誘うだけだ。
「ナンの用だよ、塔矢」
ボクに呼び出された進藤は、棋院の人気のない上の階の廊下でボクと相対していた。
「手紙で呼び出すなんてさ……コフウなシュダン……? お前が言うか? ま……塔矢らしいけど」
「他の院生に知られたくなかったからね」
「ワカッタって……で、ナンだよ用事は」
「キミと対局したい。今すぐにでも」
「……それは……」
進藤の顔が苦しそうに歪んだ。
「まだできない……か?」
「ナンだと!?」
ボクはなるべく穏やかに言ったつもりだったが、進藤は怒った。
「こんどの若獅子戦には、絶対出るんだからな!お前も出るんだろ!オレは……オレはお前と若獅子戦で戦いたい!」
「進藤、ボクはキミと戦いたいんだ……本当のキミと」
進藤の目が大きく見開かれた。
「ホントウのオレと?」
「ボクは見たんだよ……半年前の夏休みの最後の日曜日、キミが誰もいない公園で、誰かと激しく言い争いをしている姿を……」
「夏休み……日曜日……あ!」
進藤は何かを確かめる様に後ろを振り返った。そこか。
「そこに誰かいるのかい?進藤……」
「な、なんのことだよ、ここにはオレとオマエの二人しかいないじゃないか」
「隠さなくていい。ボクは他言するつもりはない。ただ、他の誰でもなく、キミと碁をちゃんと打ちたいんだ……何かに取り付かれて乱れた碁ではなく、ボクとキミの……進藤ヒカルの碁を」
「オレと……?」
「そうだ。いいだろう?」
進藤の背後の存在にボクは問いかけた。
長い時間が経った。
「ま、それほど打ちたいって言うなら、今打ってもいいけど……」
「受けてくれて嬉しいよ。ありがとう」
まずは進藤を誘うのに成功して、ボクは安堵のため息を漏らした。
「この部屋は?」
「棋士の研究会用に使われる部屋だよ。一般対局室では人目があるし」
新初段でしかないボクがこの部屋をいきなり借りることができたのは、緒方さんの名前を本人に無断で拝借したからだ。緒方さんは今日は塔矢門下の研究会に行っているはず。少なくとも今日中にばれる心配はない。後でばれても、どうとでも言い包める自信はあった。
広々とした和室の中央に碁盤が一面。
「じゃ、始めようぜ」
進藤が座布団に座ってボクを促した。
「その前に進藤、服を脱いでくれ」
「上着?」
「全部」
「……は?」
「暖房が効いてるから寒くないだろう」
「そーじゃなくて!打つのになんで脱ぐ必要が?」
「だって、キミ取り憑かれてるから、体にこれを書かないと」
ボクは鞄から筆ペンとお経を取り出した。
「書くぅ?」
「お経を体に写すんだ……だから早く脱いで」
耳無し法一という怪談にヒントを得たのだが、体中にお経を書き込めば幽霊に取り憑かれないはず。
「オマエそれマジで?」
「本気だとも」
「……そんなことしなくてもオレちゃんと打つけど?」
「それじゃボクが納得できないじゃないか」
ボクは進藤に近付いて、そのトレーナーの裾をめくり上げた。脱ぐのを手伝うつもりで。
「あほかーーーーー!!!」
僕は頬に衝撃を受けよろめいて柱に頭を強打して倒れた。
「信じられねぇ!!塔矢の変人!……笑うな佐為!あれもこれもオマエのせいじゃないかぁぁぁぁ!!」
そんな進藤の声を聞きながらボクはゆっくりと意識を失っていく。
さい……saiなのか?……ボクがネットで対局したのは、進藤……キミだったのだろうか……それとも……取り憑いていた幽霊なのか……
混濁した意識を手放すと同時に、進藤の白い腹とその上部にあった違和感を、ボクは忘れた。
「アキラ君、起きなさい」
ボクは誰かの声で目覚めた。
「ココは?あれ?緒方さん?」
「ここは棋院だ……アキラ君、君もこの春からプロ棋士なんだから、うかつな事はしない方がいいぞ」
「ボクはなんで……こんなところに?」
「覚えてないのか? 全く、進藤が気になるからって、無理強いはいかんだろう、無理強いは」
緒方さんは何のことを言っているのだろう。ボクには判らなかった。
「取り敢えず、額のソレをトイレの手洗いで消してこい」
言われた通りにトイレに向かったボクは、自分の頬の赤い手形がついてるのと、額に墨で『ヘンタイ』と書かれているのを知った。
「ボクが進藤と会ってたのか、ですって?」
緒方さんは母に言われてボクを迎えに来たという。そして何故か棋院の一室で倒れてるボクを見つけた、と。
「俺の名前で部屋を借りてると、職員の人に聞かされた時は驚いたぞ」
「今日のことは、何故か記憶にないんです。御迷惑をおかけしました」
「奥さんは君に友だちが出来たと喜んでいたが、進藤と付き合うつもりなのかな?」
車を運転しながら緒方さんは質問責めしてくる。
「あり得ません」
「まあ、そういうことにしておいてやろう」
緒方さんはボクが進藤に不埒な行いをしたのではと疑ってる。失敬な。
「お父さんの研究会の日なのに、すっかり遅くなってしまった……芦原さんや村上さんと打つの楽しみにしてたのに」
「アキラ君のライバルは進藤だろう?」
「だからどうしてボクが進藤を気にしなきゃいけないんです? 確かに以前はボクを負かしたりしてましたけど、夏の囲碁大会の結果が進藤の全てです。ライバルなんかじゃ……」
そう言いながら、ボクはもどかしさを感じていた。何か、肝心なことを思い出せない、そんな気分だ。
「俺は若獅子戦を楽しみにしてるよ」
緒方さんも物好きなことだ。
昔、ボクは秀策の碁が苦手だった。
でもそれはコドモの時に読んだ怪談のせいでしかない。
今では秀策の名も棋譜も平気だ。
いつまでも気にしてるようではプロ棋士をやる資格はない。そう思ってる。
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