進藤ヒカルは囲碁の女流棋士だ。
囲碁の世界はプロスポーツの世界に比べればきわめて狭い。
やや特殊な職業と言える。
そんな世界に彼女が飛び込んだのは、他の棋士とはいささか事情が異なった。
普通は身内に碁をたしなむ者がいて打ち方を覚え、子供大会などで才能を見出され、プロに弟子入りしたり院生になったりしてプロを目指し、その一部の者がプロになれる。
ヒカルは囲碁世界に突然現れた、と言える。
子供囲碁大会すら出たことのない女子中学生が、プロ予備軍の院生になり、プロ試験に合格したのだ。
彼女がなぜ囲碁の世界に入ったのか、本人以外に事情を知る者はいない。
「ボクと付き合ってくれないか?」
「今日はちょっと。来週ならいい」
目の前で幼馴染の少年が自分に向かって告白するのを、ヒカルは碁石を片付けながら聞き流していた。
その少年の名は塔矢アキラ。
ヒカルとは同い年だが初段の彼女とは違い、既に三段棋士だ。
そんな彼はたった今、彼の父親が経営する碁会所でヒカルと一局打ち終えたところで、意を決して告白したはずだった。
次の対局の約束ではないのだ。
「じゃあな、塔矢」
受付で荷物を受け取るとヒカルはアキラに向かってちょっとだけ手を振り、さっさと出口に向かった。
「送るよ」
不自然ではない程度にすぐ彼女の後を追えたのは、アキラにしてはよくやったと言えよう。
駅に向かうヒカルの少し後ろを歩きながら、アキラは言い直すことにした。
「進藤、ボクがさっき言ったことだけど」
「来週の」
「そのことだけど違う」
「へ、どっち?」
「別に次に打つ約束したかったんじゃないんだ」
「ふーん?」
「付き合って、と言ったのは、その、交際してほしいってことだったんだけど」
ヒカルは立ち止まった。勢い、アキラが彼女の横に並ぶ。
そして見た。彼の耳が寒さのせいではなく赤く染まってるのを。
「まさかオレと?」
「うん」
返事しながらアキラはヒカルから目を逸らしていた。
囲碁の対局なら次にどんな手で来るのか相手を鋭く見返す彼も、この時ばかりはヒカルの前にいることすら辛かった。
ヒカルは考えていた。
どう返事しようかと。
急な告白ではなかったはずだ。いつか言われる予感が彼女にはあった。
少し前にあった二人で受けた雑誌の取材で、記者に「二人はデートとかしないのか」と聞かれ、互いを見つめあったその時。
その予感にもかかわらず、ヒカルはさっき、告白に気付かない振りをして逃げてしまった。
しかしアキラはくじけずに、また告白してきた。
ライバルのアキラに対して、もう逃げはできないとヒカルは思った。
「塔矢」
アキラがヒカルに顔を向けた。
「オマエと碁を打つのは楽しみに思ってる」
「ボクもだよ」
「多分、他の誰よりも、オマエと打つのが楽しい。だけど」
アキラの表情に変化はないが、長いまつげが微かに揺れた。
「塔矢が好きだからなのか、塔矢の囲碁が好きだからなのか、どっちなのかは判らない」
「よかった、嫌われてはいないんだ」
「自信なさげだなぁ」
「色々あったから」
「あったな。怒鳴られたり無視されたりしてオマエに腹立てたこともあったけど」
「うん」
「追ってこいって言われたときは嬉しかったんだ。だから」
ヒカルはアキラの手を掴んだ。
「オマエを追っかけて、いつか追いついて」
「うん」
「追い抜いてやる!」
アキラは途方に暮れていた。
「それは、ライバル宣言か?」
「そうさ。交際ってもどっかに遊びに行くとか、そんなことはできないからな!そんな交際でいいならオマエと付き合う」
「キミがそれがいいいなら」
アキラにそれ以外の返事はできなかった。
駅で別れて電車に乗り込んでから、ヒカルはアキラとの会話を思い起こしていた。
(あいつ、交際とか付き合うとか言うけど、オレのこと好きって言ってないよな)
ヒカルにとって肝心な「好きだ」という台詞をアキラは口にしていない。
(あいつがオレを好きって言うまで、碁を打つ以外の付き合いはナシだ。オレばっかり言っても損だからな)
そんな妙な計算高さは、ヒカルの数少ない女子中学生らしさかもしれない。
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